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Drew Barrymore’s House Party (by V Magazine)

  • 3 days ago
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インドの人口は約12億だそうだけれど、数千万人規模でサドゥーがいるんじゃないかと思う。サドゥーというのは、ヒンドゥー教の行者で家をもたず、結婚をせず、生涯を旅に暮らし、行を通じて神に近づこうとする人たちのことだ。


サドゥーのてんこ盛り

 行という文言に惹かれる人は役小角を、神に近づくことに憧憬を抱く人は、アッシジのフランチェスコを思い浮かべるかもしれないけれど、高野聖や毛坊主に近いんじゃないか。

 何が言いたいかというと、欲得に対して距離を置くというポーズが本当にそれらから離れているわけではないということで、たとえば彼らに銭をせがまれたことがあるのだが、断ったり、「そんなにはあげられない。まけろ」と言ったらば、怒り出すサドゥーがいた。

 こちらからすれば、神に近づこうとも思えぬ業突く張りなのだが、そう言おうものなら、「自分のものを出し惜しみしているおまえこそが欲に囚われているではないか」という迫り方をしてくる。
 そこにはあっけらかんとした欲の肯定というよりも、処世の上での業じみたしがらみを感じた。

 布を巻きつけた半裸、あるいは全裸の彼らを街中でよく見かけた。
 当初は、塵埃を避けることなく、身を欲望渦巻く都市に置くとは、そうとう心胆を練らないと行をするにも困難ではないかと思ったのだが、彼らは街角にたむろし、チラムでマリファナを吸ったり、水浴をしたり、観光客に喜捨を迫ったり、都市を満喫しているようだった。


足を上げる行を続けるサドゥー

 ちなみに僕がインドに行った前年の90年までは、「地球の歩き方」によると政府直営のマリファナ販売所があったようだ。どういう理由からかわからないけれど、91年からは廃止された。
 だから、いちおうマリファナの所持は禁じられていたようなのだが、それも守られていない模様で、警官の真ん前でもサドゥーらは車座になり、マリファナを回しのみし、甘い匂いを周囲に漂わせていた。

 五体投地を続ける。片足や片手を上げ続ける。爪を伸ばし続ける。そんなサドゥーをたくさん見かけた。
 苦行を生涯己に課す姿に「えらいもんだな」と思いはしたが、むろんその「えらい」は立派というよりは、「難儀な人もいてはるもんやなぁ」に近い。

 心身の困憊の極みまで苦行を徹底的にやりこんだブッダは、苦行を通じて悟りに至る道を一切否定した。ブッダの理屈によれば誤った方法で正しい結論を求めることは到底不可能なことになるはずだ。
 

 サドゥーの苦行についておもしろい意見を聞いたことがあって、それは「止め時を失ったから止められなくなった」というものだ。なるほどと思う。

 手を上げ続ける行では、血の通いが悪くなり、半ばミイラ化したような枯れ木のような細い腕になる。
 そこまでの状態になれば苦痛も感じないかもしれないが、その中途ではきっと痛みを感じたろう。「なぜこんなことをしなくてはならないのだろう」と思ったこともあったろう。

 日毎に募る痛みを凌駕したのは、「これをすることに意味があるはずだ」との堅い思いだったろうか。
 だが、それは意思の強さに見えて、内実は苦痛それ自体に意味を求める鈍感さと怠惰さだったかもしれない。魂の覚醒とは程遠い、いっそう深い眠りへの道ではなかったか。

 もっと平易に言えば、断念する勇気を欠いただけのことかもしれない。

 「おもい」を表す漢字に思・惟・想・憶など多々あるが、念は中でもベタついた質感をもっている。
 「おもいつめる」といった凝らし方を表すのにうってつけの文字で、だから断念とは、リアルタイムからずれた思い込みや妄想をすっぱり断つ意味であり、悔いを残しつつ諦めるのとは違うだろう。

 だから念を断つには新しい地に向かう勇奮が必要なのだ。
 そう、「犀の角のようにただ独り歩め」とブッダが言ったように。

 サドゥーを見て思うのは、俗世間から半ば離れた存在だという僕からの距離の遠さよりも、俗世に渦巻く欲望や思惑を極端な形で体現している、身近過ぎて直視したくない存在だということだ。
 欲得へのこだわりや、そのこだわりを否定することへの囚われも、実感という妄想に重きを置くことにおいては、同じ穴のムジナだ。

 こだわりは欲という己の実寸を離れた欲望、欲得、欲念であるからして、それが達成されたとしても飢えが癒えることはない。もともとが現実にはない膨らみを帯びてしまった想像上のものなのだから。

 本当にありもしない妄想を前提に、それを否定する行をしたとて、妄想との格闘が延々と続くばかりで、個の修行は完成されることはない。

 安易な否定も肯定もせず、どのように生を全うすべきか。彼らを思い出すたびに、そんなことを思う。

http://nonsavoir.com/blog/?p=1122
  • 3 days ago
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サドゥーと呼ばれる人々がいる。その姿は異様だ。腰まで届く長い髪の毛、顔面はひげもじゃ、上半身は普通裸で、腰にはオレンジのルンギー(腰巻)、時には虎皮のふんどし、手には三叉戟の槍、そしてずた袋を持つ(大蛇や猿を手に持つサドゥーもいた)。知らない人が見れば、何かの原始部族民のようだが、じつは違う。彼らは出家者、つまり坊主のようなものだ。インド中を放浪してヨーガを習得し、ゆくゆくは不死の術でも身につけようとするのだから、どちらかというと仙人に近い。


サドゥーは普通、家を持たない。基本的には、町なら3日、村なら1日の滞在しか許されていない。許されていないというのは、大昔の何かの本にそう書いているだけで、本当のところ、誰も彼らに罰を下すことは出来ない。何しろ彼らはまったくの自由であり、誰からも一切縛られることはない。食事は、民衆からの善意の施しを受けることになるのだが、サドゥーには遠慮などというものはない。また、タイやミャンマーのお坊さんのような神妙な雰囲気もない。誰も食べ物をくれなければ、店先に行って、「金をよこせ、飯をよこせ」と怒鳴るのである。まるでヤクザのようだが、実際、彼らは様々な魔法を使うと信じられているので、一般人も彼らの要求を拒み通すことは難しい。

サドゥーもごく若い頃は、誰か師匠について共に放浪するらしい。また、サドゥーになるための入門式もないわけではない。しかし、かつて誰の弟子になったこともなければ、入門式を受けたわけでもないサドゥーもまた、いっぱいいる。そんなのはサドゥーではない、という人もいるが、結局何をもってサドゥーとするのか、当のサドゥーでさえはっきりしていない。何らかの制約を作ること自体が、すでにサドゥーの精神に反している。サドゥーはあらゆるものから自由であるべきだ。

結局そすべてはそんな次第だから、サドゥーの世界というのはまったくの謎に包まれている。サドゥー同士のコミュニケーションはあるにはあるが、まったくの孤高を貫き通すサドゥーなんてざらにいる。犯罪者がサドゥーという隠れ蓑を着て、各地を巡り歩く場合もめずらしくない。サドゥーと仲良くした挙句、殺される旅行者も多いという。サドゥーの場合、警察もよほどのことがない限り、取調べや逮捕は難しい。なぜなら、彼らはシヴァやそのほかの神様の直属の部下のような存在であるからだ。

サドゥーは一般的に結婚はしない。一応出家の身である。でも、だからといって、彼らは性エネルギーを否定していない。みんなではないが、一部のサドゥーは怪しげなヨーガを使い、二次元三次元の世界で女神たちと交わるのだという。なかには、それに飽き足らず、本物の女性とともに暮らすサドゥーもいる。僕もかつて、そんなサドゥーを二度見たことがある。女性のサドゥーも何度か見たことがある。でも、それはネパールでのことで、本場インドでは記憶にない。

サドゥーのなかには、さまざまな神秘を引き起こす人もいるらしい。空中浮遊や、水中での長時間仮死状態、あるいは、土のなかに頭を突っ込んで、尻の穴で呼吸するといった荒技もあるという。初代サイババは、自分の腸を口から出して洗浄し、干したあとで戻していたらしいが、本当はどうなのだろう?一部の人は、こうした奇跡を疑問視するようだが、僕は比較的肯定的である。なぜなら、僕は一度たりとも修行をしたわけではないし、信じないという確固とした理由が自分のなかに見出せない。知らないからといって何でも否定するのはつまらないことだ。

よく旅行者のなかに、「本物のサドゥーなんてほとんどいないよ」みたいな話をしている人がいるが、これもまた、あまり意味のある言葉とは思えない。本物のサドゥーとは何なのか、まずそれを知らないことにはどうもならない。サドゥーの起源はおそらく数千年から数万年前にさかのぼるから、サドゥーを知ることはインド文明を知ることにもなるに違いない。彼らはいつの頃からか、突然あらゆる文明に背を向け、好んで「土人」への道をさかのぼり始めた。「土人」という言葉が、この場合はほめ言葉であるのは、この写真(入り口)を見ていただければ理解してもらえると思う。サドゥーたちは灰を体に塗りたくり、時には一糸まとわぬ姿で大地を旅する。

サドゥーを聖者だとする考えが特に外国人に強いが、本当のところ、サドゥーいうのは「土人」回帰を目指した、何かとんでもなく変てこな存在である。ヒンドゥー教は、突き詰めれば、善悪なんて簡単に吹っ飛んでしまう性質をはらんでいるが(宗教とは本来そういうものだともいえるが…)、その鍵を握るのが、この宗教の黎明期から生き残る、サドゥーという存在ではないかと僕は考えている。そのあたりのことはサドゥーだけの問題ではないので、今後、例えば先住民のことなども含めて、書いていこうかと思う。(2004年秋)

http://chaichai.campur.com/indozatugaku/sadhu.html
  • 3 days ago
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神話というのは、神話の時代には、知識と経験の形式である。もちろん、神話は呪術と迷信を内部にふくんでいるが、それは一つの世界観であり、知識体系をなしている。そしてそれによって、ともかくも「みえないものがみえるようになる」のである。
 しかし、原発の「安全神話」というのは、「見えているものを見えなくする」ためのさまざまな操作である。そういうものは神話とはいわない。見えているものを見えなくするのは詐偽であって、神話ではない。
地震火山40、火山ガスの飛散と放射能: 保立道久の研究雑記
  • 1 week ago
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SKATETHING - YouTube http://bit.ly/ytyTHJ

  • 1 week ago
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(via 古代ポリネシア人が大海原の真っ只中でも島を発見出来た理由が分かる写真 - 涙目で仕事しないSE)
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(via 古代ポリネシア人が大海原の真っ只中でも島を発見出来た理由が分かる写真 - 涙目で仕事しないSE)

  • 1 week ago
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Rainy Day (by Paul Malandain)
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Rainy Day (by Paul Malandain)

  • 1 week ago
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shibata616:

民…ひとみのない目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる。
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shibata616:

民…ひとみのない目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる。

(via shashamin)

  • 2 weeks ago > 54kan
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Imagine a WorldWithout Free Knowledge
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Imagine a World
Without Free Knowledge

  • 2 weeks ago
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震災前、勝ち負けの生き残りの世界で分断されていた人々の心が、あの日を境に何かを想い出したように繋がり始めている。メッセージはそれぞれの立ち位置の人々の手をバトンのように渡り、宇宙を回って必要としているところへ必要としている時に届けられている。 さて、私達アーティストには今何ができるのだろう。あらゆるものが経済というプールに浸かり、生きることが勝ち負けのゲームのように扱われてきた近年。アートの世界も素直にその影響を受け振舞ってきた。一部のアーティストはそのプールで水を得た魚のように泳ぎ回り、また一部のアーティストはその水が合わず、生気を失い居場所を求めて喘いできた。3・11というウェイクアップコール。想像を絶する破壊と感情の揺さぶりの中、私たちは何に気付き何を想い出そうとしているのだろう。もはやアートゲームの波動では時代や人々の魂を支えることはできないだろう。すでにプールにはひびが入り、その外に広がる大海から海水が流れ込んできている。
3.11を超えて 造形作家が見いだした光:若山和央の頭の部屋:So-netブログ
  • 2 weeks ago
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